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1952年当時の吹田操車場。手前には荒れ地を開墾した畑も見える=「吹田操車場アルバム集成」から
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 高速道路網が発展するまで、全国各地でとれた果物や野菜、鮮魚の輸送には鉄道がよく利用されていた。産地から集まる貨車を、行き先別の貨物列車に編成する「操車場」は、24時間稼働した。40年前まで大阪府吹田市と摂津市にまたがる場所にあった国鉄吹田操車場(吹操)もその一つ。この歴史に光を当てる企画展が開かれており、かつて吹操で働いた人たちが語る催しもあった。

 吹操は1923年に開業した。現在のJR京都線吹田、岸辺、千里丘各駅の西側で、広さは約76万平方メートル。阪神甲子園球場約20個分で、その規模から「東洋一の操車場」と呼ばれた。

 国鉄で働いた兵庫県丹波篠山市の近成昌之さん(77)は、20歳のころだった67年、吹操への転勤を命じられた。「危険きわまりないから断れ」と先輩から言われた職場だったという。

 ハンプと呼ばれる小山(高さ2~5メートル)に、到着した貨車の列を機関車で押し上げる。押し上げられた貨車は、頂上で2両、3両と連結器を切って分けられる。分けられた貨車は、今度は頂上から下る。行き先別に分かれていて、そこで連結させ、貨物列車として各地へ出発する。

 特に危険なのは、線路を下っ…

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